湯原神社の式三番(五)




「湯原神社の式三番」は徳川時代には一月十四日に行われていたと「龍岡藩の陣屋日記」にある。 神を招いて行う「神祭り」は古くは鎮魂祭(たましずめ)といった。古代は人が病気をしたり老衰し たりするの は魂が人体より離れ去ろうとするからだと信ぜられた。また太陽がもっとも衰えると きになると昨春に神から授った里人の魂も穢れ衰微し、自然も活力を失い衰えるので神を迎えて離 れ去ろう とする魂を呼びもどし、更に強力な神の魂を分けていただき、人のからだに入れ込むと 再び自然も活気を取りもどすと考えた。したがって、からだから抜け去ろうとする魂を鎮める鎮魂祭 があつた。この呪法を古くはタマつりとかタマシヅメといった。式三番に扇や衣を振り動かす動作 は各所に見られる。柚がらみ、つっつきのの字、面振り、指扇、ひげすり、翁、千歳、三番の各所作 がここに由縁する。反閇種まきを始め足の所作は良き精霊をふるい立たせ土地の悪霊をしむめるため の足踏である。万葉時代に新築の家を祝う新室祝にも足踏みをしながら家の霊を鎮めたことが、つぎ の歌でわかる。
新室を踏み静む子が手玉し鳴るも玉の如照らせる君を内へと申せ
(一一・二三五二)
空や四方の邪気を祓い、地の悪霊を押さえ、良き精霊を振い立たせる所作である。
神人一体の境地で狂わんばかりに演じる湯原神社の式三番はどことなく古代のタマつりの流れを 継承するようで、演じられる神がかり的、呪術的所作を見ると古代のタマフリの所作が垣間見る。

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翁の詞唱する場面は鼓笛の音を押えて謡をきわだたせ、翁・三蕃叟などの演ずる場面は囃子を あるところは華やかに、あるところは音をおさえてひそやかに、あるところは全くやめて静けさを保つ。
 翁、千歳、三番叟にはそれぞれにリズムがある。翁のリズムは六拍子が主でときに四拍子、三番 叟の鈴の段は二拍子である。鼓は強弱を使いわけ、単調におちいらぬように附加拍子を加える。 休止符は先にとったりあとにとったりして鼓のリズムに変化をもたせる。段の拍子の構成が面白い。 あるときは大鼓が主導で鼓がこれに従ってリズムを構成し、あるときは鼓が主導で大鼓は従でリズム が作られる。
 芸能が宗教的呪術として機能した湯原神社の式三番は宗教儀礼から一歩抜きでて、やがて人の 鑑賞心をそそる芸能となったのであるが、神と人との精神的なつながりとしての能の本来の機能が 「湯原神社の式三番」には息づいている。

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 江戸時代には湯原神社では式三番の奉納にさきだち、七日問の別火の制があった。火の儀式は 祓い清めの性格をもったものである。六根清浄を唱え境内を流れる清水で禊をし正月十四日に奉 納された。六根清浄を唱えるところなどは修験道の匂いがする。宝暦の頃は夏祭に行われた。 名称は「式三番」であるが、湯原では「三番」「お三番」という。「湯原の式三番」は鎮魂の予祝 神事である。神の示現によって神は呪言を唱え大地を踏み鎮め四 方を払い、良い精霊を鼓舞激励し、 悪霊を調伏して、土地や共同空間に再生がもたらされ、その土地に住む人間の生命も更新される。 疲弊した時間は廃棄され、清浄な時間が回復する。生命と 時間と土地空間とに再生更新をもたらす のがこの神事芸能の根源的な存在理由である。一志茂樹博士の考察によると、蓼科の神は分水の神 であり、その奥社は蓼科山頂に あるが、「湯原神社」と春日の「根神神社」の両社(両社とも式三番 を奉納する)は、この奥社に対する里宮と考えらる。
蓼科山は信濃の山々の中で一番位いが高い山で、従五位下を元慶二年七月に叙位されている。湯原 神社が水に深い分水の神の性格をもっているであろうことは、祭にたてる幟が「昇り龍、降り龍」の 蛇体であり、これを建てれば、三粒であっても必ず雨が降るといわれることも、その一端をうかが わせる。
式三番は江戸中期より明治、大正、昭和の今日まで神に奉納し神意を慰める神事として大戦中も 中断することなく演ぜられて今日に至った。昔は役者は独身青年に限られており、任期を三年として 奉仕し、その後、後継者を養成しこの儀が代々引き継がれるようにした。このしきたりが、中断する ことなく現在に至らしめた理由かと考えられる。

出典  山窓記


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